今回は、私のFBにも投稿した気軽な話です。
趣味である縄文時代のことを深堀りするために
北海道の道東に行ってきたのでその時のことを書きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
北海道は、本州・九州が縄文から
弥生に移行しようとする時期、
縄文の生活を続け続縄文時代へと突入。
そこから少し遅れて続縄文と並行するように
樺太から人がやってきて
オホーツク文化が花開くきます。
その形跡が残っているモヨロ貝塚で発見された住居跡からは
100頭ものクマの頭蓋骨が重なり合うように
発見されています。
おそらくクマを祀っていたとのこと。
食料を信仰の対象と考えたことは私にはなく、
それを知った時、何だか少し恥ずかしい気持ちになりました。
もちろん、食べ物を粗末にしないとか
捨てないような工夫はしているし、敏感な方だと思っています。
しかしその発想自体、人間中心で人が上という意識
ではないかと思いました。
本来、食べ物はありがたいものなはずなのに、と。
当時の人たちの感覚は、どんなだったのか
それを掘り下げるべく
オホーツク文化と混じり合ったアイヌの歴史を
見に行くことにしました。
アイヌの人たちは、クマを捕らえて
食べていたわけですが、
いただく前にクマ送りの儀式をしていました。
イオマンテといいます。
その儀式では
『クマの肉体と魂を分けて、神の国で人間の世界は良いところだったと言ってもらい、また人間の世界に来てもらうために行う』
とのこと。
映像で見る限り、クマが可哀想としか思わなかったのですが
アイヌの人たちの主張は、クマ送りだったと。
そう言うなら、そうなんだと思う。(私はそういう主義です)
そして、こんな風にクマを捕らえてくることや
捌くところ、料理をするところの一連をみれば
自然と食べ物を粗末には出来ないし
感謝が湧くだろうな・・と思いました。
もしかして感謝とは
物事の全体知ることで湧いてくるものではないか・・。
現代は、分業しすぎて全体が
見えなくなっているから、感謝が湧きにくいのではないか・・。
もし、生活のプロセスを全部(今回なら食を獲得するプロセス)を
自分でやっていたり、そこまででなくても
全体を見る(知る)機会があれば、感謝という豊かな気持ちに
なることが多かったのでは?
そんなことを思いました。
この考え方は、狭い範囲でも応用できると私は思っていて、例えば
会社の業務の全体像を知れば自分の仕事の重要性を感じやすいし、
他の部署やさらに生産者へ感謝の気持ちを持ちやすい、と。
(「新人さんにはいろんな部署の経験をしてもらう」というアレ、
意味あると思います)
感謝という言葉は一般的過ぎてすごくきれいごとのように思えるかもしれませんが
そういう気持ちが少ないから、リスク回避のための大量廃棄や
受け取り拒否、安すぎる販売価格なんかが発生するのでは?
SDGsってそこからでは?
そんなようなことを思いました。
この感情的な話、うまく伝わってますかねぇ・・汗
さて、弊社も今月から4年目に入りました。
感謝の気持ちを大切に(笑)、これからも邁進していきたいと思います。